朝、目が覚めて最初にすることがスマホのチェックだった。枕元に置いたiPhoneを手に取り、ロックを外すと、昨夜から溜まったSlackの通知、天気予報、ニュースアプリのプッシュが流れ込んでくる。返す必要のないものばかりだ。それでも気づけば二十分。布団のなかで親指をスワイプし続けている。三十代の頃はこの習慣を何とも思わなかったが、四十を過ぎてから、妙に情けなく感じるようになった。
きっかけはApple Watchだった。手首に振動が来れば、それだけで用件の有無がわかる。振動がなければ、スマホを見なくていい。たったそれだけのことが、一日のリズムをかなり変えてしまった。
通知を絞ったのが大きかった。仕事のTeamsは上司とクライアントのメンションだけ。プライベートは妻と子どもの幼稚園からのLINEだけ。それ以外の通知は全部切った。最初の一週間は何か見落としているような落ち着かなさがあったが、二週間もすれば慣れた。見落として困ったことは一度もない。結局、急ぎの連絡なんてそうそう来ないのだ。
手首が静かだと、頭のなかも静かになる。通勤電車でぼんやり窓の外を眺める時間が増えた。昼休みにスマホでニュースを漁る代わりに、近所のコンビニまで散歩するようになった。こう書くと大げさだが、たぶん一日あたり四十分から一時間くらい、画面を見つめる時間が減っている。その分、何か生産的なことをしているわけでもない。ただ、ぼうっとする時間が戻ってきただけだ。でもアラフォーの身体には、その空白がじわじわ効いてくる。
子どものいる家庭だと、スマホの扱いには別の神経を使う。食卓でスマホを触ると、四歳の息子がすかさず画面を覗き込んでくる。そしてYouTubeを見せろと言い出す。一度見せたら三十分は返ってこない。断れば泣く。妻の視線も痛い。要するに、親がスマホを手に取ること自体がリスクになっている。手首で用件を済ませられるなら、食卓にスマホを持ち込まなくて済む。子どもの前でスマホを出さない生活は、思っていたよりずっと穏やかだった。
四十代になって実感するのは、集中力の回復に時間がかかるようになったことだ。三十代の頃は通知が来ても、さっと確認してすぐ仕事に戻れた。今はそうはいかない。一度流れが切れると、元のペースに戻るまで十五分はかかる。だからこそ、そもそも流れを切らないことが大事になる。通知を減らすというのは、二十代の自分なら鼻で笑っていたかもしれない地味な工夫だが、今の自分にはかなり切実な問題だった。
スマホは鞄の底でいい。必要なときだけ取り出せばいい。その判断を手首に任せるようになってから、日はなんとなく穏やかに過ぎるようになった。劇的な変化ではない。ただ、あの朝の二十分が消えて、食卓からスマホが消えて、それだけで十分だった。
